スペイン遠征

 年に一度、総本部指導員(の誰か)に舞い込む海外遠征の切符。企画が趣味の伊師師範により生み出された頭脳と粘りの結晶が、今年は私に微笑んだ。
 いつものことながら前日の夜中に準備を始め、3時間の睡眠後成田へ向かう。成田エクスプレスではお土産に用意した駄菓子をむしゃむしゃむしゃ。荷物は軽く。旅は身軽に。
 ゆとりのあるスケジュールのため、いつもの小走りとは無縁の順調な滑り出し。馴染みのない成田空港で大好きな赤川次郎の小説を買い込み、家族連れに紛れながらうどんを食べると刻々と搭乗時間が…迫ってこない。前日の寝不足は飛行機での熟睡促進剤となる予定だったが、まったりとした待ち時間ですでに意識がもうろうとし始めた。チケットのトラブルでたくさんの手間を取らせてしまった佐藤さんと伊師先生の顔が浮かぶ。ここで乗り遅れちゃあシャレにならん。必死で白目を剥きつつも、意地と根性で無事搭乗時間を迎えた。
 広大なパリ空港での乗り継ぎも何とかクリア。小さな飛行機に揺られてビルバオ空港に無事到着した。「着いたー!」と言う元気も相手もいないので、とりあえず荷物を取りにロビーに出るが…待てども待てども荷物が来ない。スペイン合宿参加経験のある逢坂先輩も確か、空港で荷物が届かないというトラブルに見舞われていたような、いないような。「まじかよ〜」と心で10回唱えたその頃、制服のお姉さんが近づいてきた。日本から来たのかと問われ、荷物は別の場所である事が判明した。同じ運命の客が数人、案内されたのは、暗証番号を入力してやっと入れるガラスの扉の向こうだった。「最初から案内しろー」とぶーたれていると、その行動を全て視察されていた事が数分後に判明した。何はともあれ姉に借りたスーツケースと無事再会し外へ出ると、自分の事を「わい」と呼ぶ東洋人を発見した。
「日本人だ!」「野本先輩だ!」「よく見ると隣にも誰かいるー!」
 空港まで遠路はるばる迎えに来てくれたルーベンさんは、とても気さくな空手マニア。私の到着待ちでルーベンさんと数時間二人きりだった野本先輩は、会うなり「日本語や!」と喜んでくれた。そして私は野本先輩の顔を見て、それまで自分が少なからず張り詰めていた事に気付いた。
 オシャレなバーでサンドイッチ食べながらも気を遣って話しかけてくれるルーベンさん。薄暗い店内で愛想よく返事をしていると「今何て言ってたの?」と野本先輩。実は話を聞いていなかった事がバレると、すかさず正面からゲンコツが飛んできた。激痛が走ったかと思うやいなや、目の前が真っ赤に染まり店内は大騒ぎ…にはもちろんならなかったが、さっすが空手家、ツッコミも正拳なのである。
 夜中の1時という時間にも関わらず、エスカレラ師範と強面の道場生の方々がホテルで出迎えてくれた。はにかみつつもフレンドリーな彼等は、私のつたないスペイン語さえも笑顔で受け入れてくれた。ナイススペイン。翌日から始まる合宿に胸はずませて眠りについた。 
 人生初の海外携帯を若者らしく使いこなし無事目覚ましセットに成功した私は、やや緊張しつつも野本先輩と共にホテルのレストランでのオシャレな朝食タイムを迎えた。窓から見る景色は絵に描いたような外国で、明らかに浮いている日本人にもスペインは優しかった
 エスカレラ師範の高級車で道場に到着すると、昨夜の笑顔がそろっていた。そこから車で数時間、見渡す限りの葡萄畑で夢のような景色はいつしか本物の夢に変わり、途中休憩のガソリンスタンドでは「口開けて眠っとったぞー」とすかさず野本先輩。「薄目で密かに景色を見ていた」という言い訳も聞き入られず、帰りはまばたきすらしない事を心に誓う。そこから更に数時間、再び目を開けると山上のキャンプ地に到着していた。 
 続々と集まる道場生の皆さんはまるで仲の良いクラスメイトのようであった。10時間かけて来たというペドロ先生と久々の再会。同じく総本部で共に稽古をしたレオ先生も、変わらぬ笑顔を見せてくれた。間もなく発表された部屋割りでは、スペイン女子期待の星『イシー』ちゃん(某師範と名前がクリソツなため、ヒジョーに呼びづらい)含む6人部屋となり、仲間に入れてもらえるだろうかという不安はすぐにどこかへ消えてしまった。ゆったりとした昼食の後は、なんと午後6時までフリータイム。日本では考えられないスケジュールにニヤつきながらも、20分ほどのおしゃべり後またもや睡魔に襲われる。サッカー・プール・音楽におしゃべり。全員が稽古開始までの時間をフル活用する中、半開きになったまぶたに気付いた女の子がさりげなく「寝てもいいよ」と言ってくれた。部屋に集まっていた元気な仲間達もまた、疲れた日本人に気を遣ってくれた。シーツをかぶって数分後、話し声が小さくなり電気が消えると忍び足で私のベッドに近づき、パチリ。眠る私を囲み記念撮影まで行われていた…。
 午後5時起床。記念すべき初稽古を前に緊張が走る。「スペインの合宿はきついからね〜」日本を発つ前に入手した情報は皆、同じ内容であった。帯を締めてキョロキョロしているとサポーターは不要とイシーちゃん。なんだ、スパーリングは無いのか。しかしサポーターどころか水もタオルでさえも、何も手にしていない。むむ。何かがおかしい。どこか違和感を覚えつつ、室内練習場へ向かった。
 完璧な日本語で開始した室内稽古。海外で聞く自国の言葉は、なぜかとても神聖に思えた。三戦立ちから圧倒されるような正拳突きが繰り出される。数種類の手技の後、「キバダチノヨーイ」。肘打ち・肘上げ・肘打ち下ろし。そしてそこからまだまだ続く。見た事も聞いた事もない基本稽古が、一体いつまで続くんだー!太ももは痛さを通り越して、もうバラバラになりそうだった。意識が朦朧とし師範が鬼に見えかけた時、「ナオレー」と天使の声がした。蹴りも移動も型の稽古でさえもスペインオリジナルがふんだんに盛り込まれており、ここに来て初のカルチャーショックを受けた。人生初のスペイン稽古は、この後しばらくトラウマとなる。時計を持たずにスペインへ旅立った私は実際の稽古時間を知るよしもなかったが、永遠にも感じられた初稽古には休憩も給水も、何もなかった。
 日本とは別の意味での厳しさがある異国のキャンプ。帰りの飛行機が気を利かせて早く迎えに来てくれる事を心から願いつつ、部屋へ戻る。すると汗だくの道衣を早々と脱ぎ捨てたルームメイト達は楽しそうにバスタオルを体に巻きつけ、次々と部屋を出て行った。廊下には年頃の狼のような(←うそ)男性陣が通る危険性があるというのに。
「お母さんはそんな子に育てた覚えはありませーん!」
 廊下へ出ると、ほっと胸を撫で下ろす。なーんだ、誰もいないのか。と思いきや、出てくるデテくるどこからともなく同じ姿の男性陣が、わらわらと廊下に湧いてきた。「オーラ」といつものスマイルで、一人スパッツ姿の私に笑いかける。二日目の朝にはもう何とも思わなくなったこの『タオル一丁でシャワーへGO』。キレイ好きは国柄なのか、この後8回を数えた稽古の後は皆決まってシャワーへ足を運んだ。数分後に晩ごはん、そしてその後はまた稽古だというのに。少しは柔軟性を備えている私だが、持参したスポーツタオルでは少々危険が大きすぎると判断し、結局最後まで一人だけスパッツ姿の切ない日本人となった。
 さて、ダイナミックな晩御飯が終わり、いよいよ噂の『ナイトトレーニング』。いつでも戦えるようにとの考えから、予告なしに夜中にたたき起こされてそのまま稽古を強行すると言われるナイトトレーニング。夜中の2時といえば、良い子はすっかり夢の中。早寝早起きが美徳とされる日本では、これまた考えられない荒行である。しかし今回は、3日目に行われる昇段審査会を考慮して、少し早めの23時に決行された。20分の仮眠後、「ミカセンパイ、ウェイクアップ」と笑顔でルーベン。「ニホンジン ヨル ネル」と心で涙し寝ぼけ眼で帯締める。ぞろぞろと外へ出ると、真っ暗な夜空にぼーっと浮かぶ無数の人影。山の夜に太陽の面影はなく、少し寒いぐらいになっていた。何とも不思議な感覚の中場所を移動しナイトトレーニングが始まった。さてその内容は…。私は思い出したくないのでご自由に妄想を。
 2日目をむかえ、早くも疲労がピークに達してしまった。1日4回の稽古の合間は現実逃避の昼寝に限る。プールにサッカーと活動し続ける彼等はたぶん、宇宙人だ。そしてやっとこさ昇段審査のある3日目に突入する。食事やおしゃべりはとても楽しく、稽古以外では笑わされてばかりの私であったが、この頃にはもうすっかり「ニッポンカエリタイ病」におかされていた。しかし宇宙人達の快進撃はまだまだ続く。昇段審査当日にも関わらず、夕方の本番まで普段通りの宇宙人ぷり。ここに来て改めて自分がモヤシであることを自覚した。なんちゅー体力。精神力。そしてそれは、本番である昇段審査会でも顕著に現れていた。
 偉大なる野本先生の顔に免じて見学が許された私は、一人居心地の悪いベンチに腰を下ろす。そしてトラウマとなった初日の基本稽古は、審査会でも当たり前のように行われていた。見ているこっちが苦しくなるほどの厳しい内容に耐えられる自信は、私にはなかった。3日間生活を共にした仲間達の懸命な姿は、私の心に重く響いた。夜も更け、いよいよ最後の組手がやってきた。受審者以外のメンバーが野外の組手稽古から続々と審査会場に現れる。そしてウォーミングアップと称された少し軽めの連続組手の後、女性の受審者とともにその場に残る事を指示される。「相手をお願いできますか」とエスカレラ師範。「もちろん大丈夫です」と答えたが、あれ?10人連続は聞いてませーん。時すでに遅し。女子受審者とともに、スタートを切った。日本人の面目にかけて何とか9人を終えたその時、最後の一人は順番を飛び越えてスペイン女子期待の星『イシーちゃん』だった。オーノー。1度目の対戦を無事終え、不意をついてまさかの2度目。1度目は上段前蹴りでなんとかしのいだものの、イシーちゃんにも意地がある。危険なほどにヒートアップした周囲の声援は、全てイシーちゃんに向けられていたのではと思うほどの重圧を感じる。かわいい顔したスペインの一番星は、実力もまた確かなものであった。
 熱く激しい審査会を終えほっとしていると、ビデオカメラが向けられてあっと言う間に取り囲まれてしまった。「スペイン語で一言!」覚えたてのスペイン語を発表すると、予想以上に盛り上がる。そこで突然「ヨーデル歌え」の声がかかった。「シハン ソトダテ シング、ジャパニーズ ヨーデル 歌え」。あまりの熱狂ぶりに断りきれず…。その後夜のパーティーでも何度となく要求される事となった。
 時は経ち、いよいよSAYONARAパーティーがやってきた。ここではなぜかカラオケが定番らしい。野本先輩のハイテク携帯電話と愛媛の親切な道場生の方の書き込みにより、私達は新極真の歌詞をゲットした。パーティーではやはりヨーデルの声もかかったが、野本先輩はそこで空手バカ一代を熱唱した。山上の夜空に響く空手バカ一代は、陽気なスペイン人達を魅了した。その後逃げ切れず私まで歌う羽目になり、そこでも野本大先輩は新極真の歌を一緒に歌ってくれた。別室に移りカラオケ大会では優勝商品をかけて大いに盛り上がる。隅でひっそり息を潜めていた二人の日本人はあえなく真ん中の席へ招待され、歌にダンスに度々駆り出された。照明を落とした会場で盛り上がるカラオケ大会中、ただ一人空手家らしく黙想をするN本先輩はフラッシュの嵐にも動じずし、船を漕ぎ続けていた。
 合宿4日目。いよいよ待ちに待った最終日を迎えた。さすがのスペイン子も疲労の色が見え始め、それを考慮して稽古内容にも大きな変化が見られた。独特の歌に合わせてランニング。透き通った空気と太陽と眩しい笑顔の中で、気持ち良く体を動かしつつ最終稽古を終えた。全ての日程を終了し荷造りの後、戸惑うほど長い自由時間が与えられた。さーて、最終日ぐらいは宇宙人になってみようかな。いつも私を気にかけてくれた優しいローラがサッカーに誘ってくれた。即戦力には到底なれない私だが、ほっぺの筋肉が悲鳴を上げるほど楽しませてもらった。そして予想外にサッカーがうまい野本先輩は意外とサッカー部出身であり、ゴールキーパーをするまでは、大活躍であった。
 たっぷり遊んだその後は、最後のランチタイム。楽しい仲間達は突然目配せをすると、食堂にいた全員で誕生日の歌を歌い始めた。最後に私の名前が呼ばれると、うれしはずかしい返す言葉も浮かばない。その後ミーティングを終えた師範方が登場し、今度は師範の音頭により全員に祝福の歌をもらった。こんなの反則だ。どこまでスペイン人を好きにさせれば気が済むのだろう。 
 昇段の合格発表では日本と同じく、一人一人の名前が呼ばれる。初日から優しい笑顔で話しかけてくれたロレーラ。緊張気味の彼女の顔が、突如涙に変わる。呼ばれるはずの名前は、一つ飛び越え別の名前に。仲間の苦しみは、私の苦しみとなった。掛ける言葉も見つからず下を向いていると、しばらくして突然聞こえた「ローレラ」の声。やった!合格だー!!!椅子を跳ね飛ばして飛び上がりたい気持ちを必死でこらえる。悲しみの涙は急遽喜びに変わり、それはそこにいる全員の喜びとなった。
 離れたくない気持ちをこらえまた会うことを誓うと、皆はまた日常の世界へと旅立っていった。その夜、極度の疲れにも関わらず私達のために集まってくれた師範と道場の仲間達。ちょっとだけおめかしして夜の街に繰り出した。日本では滅多に口にしないワインで乾杯。疲労と空腹が手伝い、地面が揺れ始めるのに時間はかからなかった。一品料理の小さな立ち飲み屋が立ち並ぶエレファント通りでは、全てのものがすばらしくおいしかった。「スペインサイコー!」「帰りたくないね〜」。この夜私と同じくスペイン漬けにされてしまった野本先輩とは、色んな話をした。空手界の大先輩は人生でもやはり大先輩であり、私はここで大きな収穫を得た気がする。通りすがりのアイスクリーム屋が忘れられずに、帰り道で「わいアイスが食いたいんじゃ」とぶつぶつ唱えていた人とはとても同一人物とは思えなかった。
 そして出発の朝、異国の地でとても心強く大変お世話になった野本先輩の見送り時間に寝過ごしてしまうという大失態にも関わらず、急いで掛けた携帯電話からは「ゆっくり寝かしてあげようと思ってな」と優しい言葉。野本先輩帰国後に私を観光に連れ出してくれたエスカレラ師範にイシーちゃん、そして最後はやっぱりルーベンさんに空港まで送ってもらった。
 思えばスペインに到着して約一週間、稽古以外ではほとんど笑っていた気がする。油断していると歯が乾き、上唇がくっついてしまうという困った事態が何度も起きた。情が厚く太陽が良く似合うスペインは、私の大好きな場所となった。数え切れない思い出と大きな収穫をもたらしたこのチャンスは、私の人生に大きな影響を与えるに違いない。
 今回のチャンスを作ってくれた伊師先生、許可して下さった緑代表、そして細かい手配をしてくれた佐藤さん、本当にありがとうございました。スペインの皆さんに出会えたことはきっと、一生忘れません。スペインメモリーズの共有者となった野本先輩、あの時の感動は今度またじっくり話しましょう。 
 太陽の国・笑顔の国・情熱の国スペイン。そして私にとってはかけがえのない大事な友となったスペイン。大好きです。本当にありがとうございました。
 追伸:あの夜の帰り道、自称元ゴールキーパーのN本先輩は無事特大アイスと出会ったそうな。めでたしめでたし。 押忍

歯が乾く国スペイン。日本人はヨーデルを歌うものだと思われていましたよ、外舘師範。

ルームメイト

稽古中?

黙想やめ
お父さん 師範と仲間たち

ロナウジーニョーズ

アイスだよ